中医学・薬膳学の歴史④ 漢の時代
昨日は投稿前に、このブログに設定してあるいろんな機能をいじっていたら、タイトルがどっかへ消えてしまい、ショックで何もできませんでした。
タイトル改め「薬膳師さいこ こつこつ学ぶ」にしました。
今後ともよろしくお願いいたします。
久しぶりに歴史についてです。
前回の歴史では、周の終焉から始皇帝が秦を興し中国を統一し、文化・芸術・科学・技術が発展 した・・・というところまででした。
始皇帝は優れた君主ですが、焚書坑儒など苛烈な弾圧や、匈奴に対抗するために万里の長城の基礎建設(完成したのは明の時代)などで人心が離れ、反乱によりわずか数十年・一代限りで滅びました。 ちなみに中国統一といっても、現在の中国の東の方を統一した…という規模だそうですが。
その後、歴史や文学でもおなじみの項羽と劉邦が争い、勝った劉邦は高祖として王の座につきました。 この戦の中で「四面楚歌」ということばもできたんですね。
漢時代(紀元前202年頃~西暦220年)

漢時代は途中で反乱があり、前漢・後漢に分かれます。
中国で最初の薬学の専門書「神農本草経」(しんのうほんぞうきょう)が出版されました。これには365種類の薬物を上品(じょうほん)120種・中品(ちゅうほん)120種・下品(げほん)125種に分けて詳しく説明しています。上品・中品・下品は上薬・中薬・下薬ともいいます。
上品は、毒性がなく多量に長く服用できて延年長寿の効果があるもの。 中品は、毒性のあるものとないものもあるが、病気の予防や補虚の効果があるもの。下品は、毒性があり(効果が強すぎるものを含む)長く服用することができないが、寒熱邪気を取り除き積聚(気・痰湿・瘀血などの阻滞)などの病気を治療する効果がある もの・・・と分けています。
湯液の配合には「君・臣・佐・使」があり、君薬は主成分となるもので上品を使う。臣薬には中品を使い君薬の効能を高める。佐薬・使薬には下品を使い治療をすると2000年以上前に書かれたことが、今日の 薬膳にも取り入れられています。
古代歴史の中で、神農さんが山で毒にあたり、茶葉の露で命が救われたエピソードを紹介しましたが、 茶には解毒作用があり中品に分類されています。
後漢書の巻84列女伝第74には薬膳が広く世間に知られるようになったエピソードが書かれています。
母を亡くした4人兄弟のもとに、後妻に入った女性がいました。兄弟は新しい母を嫌いいじめたそうです。周りの人は心配し別居を勧めましたが、母は辛抱強く愛情深く彼らを養育しました。あるとき長男がひどい病気になり、母が 愛情込めて薬膳を作り食べさせたところ病気が治りました。兄弟たちは今までのことを反省し、母にあやまり以後は素直に教えに従ったため大成し、地方の名士になった・・・というお話です。
この時代、医聖といわれる張仲景(ちょうちゅうけい)さんが「傷寒雑病論」(しょうかんざつびょうろん)を書きました。中医臨床の弁証論治の基礎を定め、私たちになじみの深い臓腑弁証のほか、六経弁証を創設したこの書は中医臨床の経典といわれています。傷寒雑病論は、歴史の中で散逸し「傷寒論」(しょうかんろん)と「金匱要略」(きんきようりゃく)の2冊に編纂しなおされました。
日本で漢方薬として処方されている薬は、傷寒論の中にある方剤だけであることをみなさんご存知 ですか?

第一方剤といわれる「桂枝湯」は冬のカゼひきによく使われます。 桂枝、生姜、大棗、甘草、芍薬…とほとんど食材からなる方剤ですが、「これを服用後しばらくして温かい粥を飲ませると薬効を高める」また、「生もの、冷たいもの、粘りのあるもの、肉、麺、酒、刺激物、乳製品、匂いの強いものを禁忌とする」など薬の処方だけでなく注意事項も書き記しています。 このような効果が強すぎず無毒な中薬で病気の9割を治し、後は食事で完治 するというのは本当に名医の治療方法ですね!
この時代には華佗(かだ)さんが、麻酔作用がある麻沸散を作り手術が行われました。
漢時代までに中医学は、制度・理論・方法(薬物、針灸、運動など)・方剤・中薬において特有の 理論体系が整備されました。
お付き合いいただきありがとうございました。
この投稿へのトラックバック
トラックバックはありません。
- トラックバック URL
この投稿へのコメント