中医学・薬膳学の歴史② 夏・商・周の時代


前回は古代中国の伝説から、中医学・薬膳学に関係の深い事柄、人物をご紹介しました。ここからは中国4000年の歴史といわれる、文字にによる記録からたどっていきたいと思います。

ところで、言葉と文字と文字様の記述はぜんぜん違うもので、それらを使う共同体の有り様を表すのだそうですね。観点の違いにより諸説ありますが、日本に文字が伝わったのは約2300年前・戦国時代の中国から弥生時代初期の日本へということです。圧倒的な文明の違いにどれほど驚いたことでしょう!

平たくいって、文字様の記号に意味を持たせ意図することを書いて伝えるものが文字とすると、それは統治や支配する目的につながっていくのですね。弥生時代初期までの日本は、文字を持たなくても不便のない小さな共同体がそれぞれに暮らしていたけれども、稲作と文字の伝来で日本にも統治や支配という体制が生まれ、やがて国に発展したということなのかな…とはるか昔の歴史の授業を思い出しました。


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「夏」(紀元前2000年頃)は伝説の国家といわれていましたが、研究が進み最初の国家「殷」の前に初期王朝のかたちを成していたとされ、甲骨文字様のものが発見されているそうです。国家の支配権は禅譲から世襲に移行し、奴隷社会が生まれました。

夏の時代の遺跡からは、井戸・青銅器・酒器・炊飯器(肉などを煮るもの)が発見されていて、中でも酒器の数が多く甜酒・苦酒・濁酒などが作られていたとわかっています。酒は飲酒儀礼だけでなく、治療にも使われました。

禹王(うおう)の妻が王のために、儀狄(ぎてき)に酒を造らせて贈ったところ、王の兵士たちが酒に酔い戦意や戦力が低下してしまったため王は怒り、儀狄を処罰した…というエピソードがあります。

 

商の時代(殷時代ともいう・紀元前1600年頃)、すぐれた料理人であった伊尹(いいん)湯液(スープ)の作り方から薬効のあるものを煎じて使うという方法を発見しました。食と医がしっかりと結びつきを持った始まりです。

伊尹は、夏が殷に滅ぼされて奴隷の身分となった人です。殷の族長の湯は、優れた人材である伊尹を得るために娘の婿としました。湯に仕えやがて大臣にまでなった伊尹は、孔子と同様に中国で敬愛されています。

殷墟から発見された甲骨文には、疾首(頭部)疾目(目)疾耳(耳)疾(腹)疾子(子供)など20余の疾病が記されていて、病名ができました。灸・針・按摩・薬物などを使った治療が行われていたそうです。

この時代は戦乱で多くの人材が朝鮮半島に逃れ、中国の医学知識も流出しました。これらがやがて日本にも伝わったといわれます。

 

周の時代(紀元前1000年頃・西周時代)、農業や牧畜業・天文・地理・冶金、紡織などが進歩し、飲食や健康を重視する考えが確立し、食と医に関わる役職が国家により定められました。国家の政策や規則、行事などについて定められたことが記されている「周礼」(しゅうらい)に以下のように記録されています。

包人・食材に詳しい厨房で働く人が30人と助手40人。

膳夫・王と王家の人々の食の管理と毒見役が32人と助手120人。

医師・医療の法律や政策担当の管理職。

食医・王の飲食バランス、四季の陰陽調和、味の配合を管理する調理師で管理栄養士が2人。

疾医・総合内科医師(眼科や耳鼻科なども含む)が8人。

瘍医・外科医師(皮膚科なども含む)が8人。

獣医・獣医師が4人。

医師の中では、食医が最も上位に格付けされています。

またこの頃から、穀物や豆などを使い酢・味噌・しょうゆ・豆鼓などの調味料が作られるようになりました

 

周時代はとても長く、長安を都とする西周が弱体化してくると都を洛陽に移し東周になります。東周から春秋戦国時代を経て、始皇帝による秦朝が成立するまでの間、天下は大いに乱れましたが青銅器時代から鉄器時代に移り、科学・技術・文学・芸術が高度に発達した時代でもありました。

次回は、東周~春秋・戦国時代からです。お付き合いいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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